この記事は連載「図書館員の読書道」の第六回です。
ピーターラビットの世界
ー前回は幼少期に好きだった絵本を紹介していただきました。今回はもう少し大きくなってから読まれた本ということで。
山水(以下略):はい。私はあんまり物語に興味のない子どもでした。でも、絵は好きだったみたいで。
幼稚園ぐらいから
絵画教室に通ってまして。
ーそうなんですか。珍しいですね。小さい子の習い事として、ピアノとかはよく聞きますけど。
ピアノも習わせてもらっていたんです。
でも、毎週宿題(課題)が出て練習せんといかん習い事は向いてなかったようです。
ー(笑)。絵は宿題はなかったんですか?
そうそう。行ってそこ(教室)で描いてればいいからね。
習い始めたきっかけは覚えてないんですが、結局、一番長く続いた習い事でした。
まあ、これを習い事っていっていいのかわからないんですけど。
なんかね、そろばんとか、習字とか、何か技術が習得できるっていう類のものではないのでね。
で、小学生の時におそらく一番意識していたのがピーターラビットの絵本だったんです。
著者私物のピーターラビット絵本 (撮影はサザンガク様にて) |
同上。ページをめくると繊細なしかけがいっぱいの、とび出す絵本。 |
ビアトリクス・ポター, 岡松きぬ子訳『ピーターラビット しかけえほん』(大日本絵画)
※著者私物には1986年 第3刷の記載。初版がいつかは不明
こちらのサイトで、本の中のしかけの様子が一部見られます。https://rapeter.sub.jp/bk/book102.html
ピーターラビットの絵本シリーズについては、上のしかけ絵本も含め、さまざまなものが出版されている。
もっともオーソドックスなものは福音館書店から出版されている文庫本サイズのもの。
シリーズのほとんどが石井桃子訳。
福音館書店のピーターラビットシリーズ紹介サイト
https://www.fukuinkan.co.jp/search.php?series_id=85
ー「繰り返し読んだ」とか「好きだった」とかではなく、「意識していた」というのが面白いですね。
確かに(笑)。
私は読んだ本は手放すことも多くて。特に親戚のお古が中心だった絵本は、状態が悪くなったものも多くてほとんど残っていないんです。
そんな中、ピーターラビットの絵本は数冊残っているんですね。
これは全部ね、お古じゃなくて買ってもらったものなんですよ。
ーほう、そうなんですか!
自分から「欲しい」と言ったんだと思うんですよね。覚えてないけど。
そういういきさつも覚えていないうえ、実はね、私、ストーリーとかもあんまり覚えてなくって。
ー……。なんで好きだったんでしょうね。
「その絵本が好き」というよりも、ピーターラビットの世界観が好きだったんだと思います。
子どもが絵本を夢中で読んでいるときは、その絵がアニメーションのように動いて見えていて、その世界に入り込んでいるらしいんです。
ーえ~!自分の小さいころの感覚は、もう思い出せませんが……。
大人の感覚だと、絵本は静止画で、絵がメインのちょこっと文章がついている、という平面的な、まあ「本」ですよね。
でも、子どもには全く違うものに見えている可能性がある。
こういうことは私も児童図書の担当になってから知ったことなんですけど(笑)。
私も、ピーターラビットの世界の住人、みたいな状態になってたんじゃないでしょうか。
90年前が、そのまま。
で、今となっては絵本との出会いが先だったのか、TV番組が先だったのか、記憶も薄れてるんですけど、 ピーターラビットシリーズの作者、ビアトリクス・ポター(1866-1943)を特集したドキュメンタリー番組を見たんです。
幼稚園か、小学校低学年ぐらいだったと思うんですけどね……。かなり小さいころです。
ー山水さんが見たという番組、調べたらわかりました。
え~、ほんとですか!そんな昔の番組が!
ー1989年8月20日放送の「NHKスペシャル 世界一愛されたウサギ ピーターラビットの田園から」というドキュメンタリーでした。
「NHKスペシャル 世界一愛されたウサギ ピーターラビットの田園から」
世界中の人気者ピーターラビットの生まれた英国湖水地方を訪ね、作者の愛した自然や残っている資料から絵本の生まれた過程を探る。またその自然を守るために絵本の果たした役割を紹介する。
1901年に出版された絵本「ピーターラビットのおはなし」は40カ国で翻訳され、世界中の子供たちに愛されている。作者ビアトリクス・ポターは、イングランド北部の湖水地方に住んでいた。少女時代に描かれた動植物の細密なスケッチ、暗号で記された日記を紹介する。
https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=173014 より
うわー、これですこれです!私、小学校1年生だったんですね。
ーよく覚えていますね。しかも、子ども番組ではなく大人向けのドキュメンタリー番組です。
実はなんか、その、ドラえもんとか、そういう自分が毎週見ているアニメ番組と間違えて偶然録画されてたような気がします。
で、たまたま(ビデオに)入ってたのを見て衝撃を受けまして。
ー番組概要に書かれていますが、あらためてどんな内容だったかお聞かせいただけますか。
絵本『ピーターラビット』は1901年に出版されたということなので、番組放送の時点で約90年前に出た絵本、ということになるかと思います。
この番組では、ポターの住まいやその周辺を訪ねるんですね。
実は、ピーターラビットシリーズの様々な絵本に出てくる、動物たちが活躍する庭や道端の背景は創造されたものではなく、ポターの住まいの身近な風景なんです。
その何気ない風景が、映画撮影のセットのように、全く同じ状態で保存されてるんですよ、90年前のまま。
茂ってる草の種類や、そのしげみの大きさまで!
ー90年前のものがそのまま……。日本に置き換えると、明治時代のまま残っているような感じですね。
そうです。それも建物だけでなくて、風景そのものが、写真で撮影したかのように、その当時のまま残っているんです。
で、この番組の面白さは、実際の絵本の一場面、例えばウサギのピーターが庭に立ってる挿絵が、TV画面に表示されるとするじゃないですか。
そうしたら、現在のその風景を撮った映像がそこに重なるんですけども、挿絵とほぼ100%一致するんです。
この番組を見て、ポターが絵本を作っていたころとほとんど同じように周辺が保存されていることに、たまげたんですよね。
国とか権威のある機関が貴重だと判断した重要文化財がそのまま街に残るんならわかるんだけど、普通の一般人の、名もない庭とかアプローチが(そのまま残っている)っていうのはね。
しかも、その、生えてる草花とか茂みとかまでそのまんまなんです。
そんな細かいものまで、ポターが生きてた頃のままってことに、子どもながらに衝撃を受けまして。
ーいや、それは小学1年生でなくても、大人が聞いてもびっくりします。
それで、そのショックとともにポター自身にも、とても興味を持ったんです。
ピーターラビットはかわいいな~と思ったり、キューピーの広告で知っていても、作者のポターについては名前すら知らない、というひとも多いかもしれませんね。
この番組ではさまざまな資料に基づいてポターの半生をたどっていくのですが、絵本の創作だけでなく、自然保護運動や植物の研究などをしながら、農場経営など実業家としての顔も持っている、かなり珍しい生き方をした女性だったことが分かります。
ー現代の女性でもここまでマルチに才能を発揮できるひとってあまりいないのでは。ポターの一つの顔として、絵本作家という側面がありますけど、女性がその時代に作家として生きていくのは難しかったのでしょうか。
今からは想像できないほど難しいことだったのではないか、と私は思っています。
例えば、イギリスの女性小説家ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)の残した『自分ひとりの部屋』には、「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」というフレーズが出てきます。
ヴァージニア・ウルフ 文,片山亜紀 訳(2015)『自分ひとりの部屋』平凡社
ウルフが生まれたのは、ポターの約20年後。
世代的にはポターよりもひと世代後、という感じです。
ですが、ウルフの本を読むと彼女が生きた時代であっても、女性が創作活動で自立する、ということは大変困難だったことが分かってきます。
ポターもウルフも上流階級の生まれだったので、創作で生きることが経済的にも可能だったのかなと思うんですよね。
パイオニアみたいな存在なのかもしれません。
ーなるほど。ポターについては、Wikipediaにも詳しい記載がありますが、映画化もされているんですよね。
そうなんです。
この映画は、レニー・ゼルウィガーの魅力が光っていて、「ブリジット・ジョーンズの日記」や「シカゴ」での演技とは全く違う表情をみることができます。
イギリスの湖水地方の風景も心なごみますし、おすすめの佳作です。
夏休みとかにお子さんと見てもいいのではないでしょうか、と言いたかったのですが、Amazonなどでは配信されていないようです。残念。
ピーターラビットの作者、ビアトリクス・ポターとナショナルトラストとの深いつながり
ーところで、ポターの家の周辺が当時のままそっくり保存されていたのは、ポターが国を代表する作家になったからなんでしょうか?国の指定文化財のような感じで。
いや、それが違うんですよ。
ポターが自分の所有地や家をナショナルトラスト(National Trust)という団体に寄贈したからなんです。
先ほど紹介した、NHKのドキュメンタリー番組でそのことが詳しく説明されていて、イギリスにはそんな仕組みがあるのか!と、これまた驚愕して。
国が言ったから保護する、というのではなく、市民活動なんですよね。
ーナショナルトラストについてご存じない方もいらっしゃると思うので、簡単にご説明いただけますか?
ナショナルトラスト(国民環境基金)活動とは、ひろく国民(地域住民)から寄付金、会費などを集めて土地や建物を買い取ったり、寄贈を受けたりして、貴重な自然や歴史的に価値のある建物などを守っていこうとする活動のことです。
日本にもナショナルトラスト協会はあるのですが、発祥の地はイギリス。
ロバート・ハンター(弁護士)、キャノン・ローンズリー(牧師)、オクタビア・ヒル(社会事業家)の3人が中心となって、1895年に設立されました(※1)。
もともとは、産業革命によって急速に自然が荒廃したり、歴史的な建物が壊されたことに市民が危機感を感じ、これらを保護するために始まった市民活動なんです。
ポターはナショナルトラスト設立時のメンバーであるローンズリー牧師と知りあいでした。そのため、ナショナルトラストを早い時期に知り、設立後まもなくかかわっていくことになります。
湖水地方の風景をポターはとても美しいと思っていて絵本の舞台にもするくらいでした。だから、この風景を守りたいという気持ちは非常に強かったのだと思います。
絵本の印税で、湖水地方の土地や農場を買いまくって、結果的にはその地域の大地主のひとりになり、農場も経営し、そのほとんどをナショナルトラストに寄贈する、という内容の遺言を残してポターは亡くなりました。
ポターは土地だけでなく付随する建物も購入していて、寄贈した土地の広さはなんと東京ドーム約366個分(※2)。
これだけの面積の土地やそこに含まれる建物が、現在も当時の面影のまま保存されています。
女性は影の存在だった時代に、ひとりの女性がその後の社会に与えたインパクトとしては、かなり大きいと思います。
ー「あっぱれ」という感じですね~。ポターは初期のナショナルトラストの活動にとても貢献した人物だったんですね。
そうなんですよね。
しっかり毛並みまで描きこまれたピーターラビットの絵から想像すると、作品作りだけに専念していた、繊細な感じの女性に思われそうですけどね。
芸術家にパトロンがつく、というのならわかるのですが、逆に絵本作家が自然保護団体のスポンサー的存在になってしまった。
しかも女性、というのがめちゃくちゃかっこいいと思いましたね、そのころ(笑)。
ポターは景観保全のために次々に土地や建物を購入していきました。
不動産が増えると、ポターのみでは管理しきれず、代わりに弁護士に管理を依頼するようになった。
そしたら、その弁護士がポターの自然保護の理念にいたく感銘を受けてしまって、結婚申し込んじゃったんですよ。
ポターは最初の結婚は周りから祝福されず、しかも結婚直後に夫を亡くしてるんですが、その弁護士と再婚するんですよね(※3)。
ーいやー、山あり谷ありの痛快人生ですね。
もう、日本だったらNHKの朝ドラ化決定ですよね。絵を描くシーンもあって、TVの画的にもいい(笑)。
このドキュメンタリーでポターとイギリスのナショナルトラストのことを知ったのは、幼い私にとっては大きかったですね。
環境問題に興味を持つきっかけになりました。
こういったことばかりでなく、絵画の面でも私はとても影響を受けました。
(次回に続きます)
<参考URL>
※1
イギリスのナショナルトラストの歴史
http://saitama-greenerytrust.com/about/history/england
※2
「ピーターラビットTMとナショナル・トラスト」について
https://ktm.or.jp/contents/kaiin/kaiho/midori/29/105-1nt.html
※3
wikipedia ビアトリクス・ポター
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%BC