「手先の運動」が私を救った
山水(以下略):前回ご紹介した藤木美奈子さんの『親に壊された心の治し方』(講談社, 2017)に、「世の中に、子育てほど幅広くてさまざまなやり方が世間から黙認されているものはないと思います」(p.46)とあるんですね。
これは、どんな親のもとに生まれたのかによって、子どもが幼少期に家庭から学ぶ内容にかなりばらつきが出てしまっている、という現状につながっているように思います。
ーそれは、その子のその後の人生の苦労やその後に選択できる人生の幅が、生まれた環境によりかなりの部分決まってしまう、ということでしょうか。
残念ながら、今の日本ではそのような状況です。
「子育てはそれぞれの方針があるのだから、うちのやり方には口を出さないでほしい」とか「これはしつけです」という親御さんの主張が、日本ではまだまだ受け入れられています。
これは、育児については他者による「客観的な判断」というものが機能しない状態で、見方によっては危ない状態です。
家庭の場合、この状況に「閉鎖的空間」という条件も加わるので、暴力がおこりやすい条件がそろってしまっています。
こういったことから、未だに客観的に「虐待だ」と判断される状況であっても、福祉や児童相談所などがすばやく介入できないんでしょうね。
ーなるほど。山水さんもふくめて、前回、前々回でご紹介したアダルトチルドレン(AC)の方々は、そこを生きぬいてきた勝者というか……。
「勝者」という言葉は違和感があります。たまたま運がよく、人生を立て直せたひとたち、ということです。
自立できなかったり、自立できても低賃金で働くことになったり、暴力的な配偶者と結婚してしまったり。
また、こういう環境で育つと感情のコントロールが難しくなるので、犯罪を犯してしまったり。
そういう人たちの方が、実は、圧倒的に多数なのではないか、と私は考えています。
藤木美奈子さんの『親に壊された心の治し方』を読むとそう感じます。
例えば、前回ご紹介した群ようこさん、小林聡美さんは本の世界に入り込むことで、面前DVなどから心を守っていましたよね。
ーええ。
あれは、本がある家庭だったのと、お二人が読書に興味があったこと、読書を阻止しない親だったからできたことなんです。
虐待やDVが日常的に行われている家庭には、親御さんに本を読む習慣がなかったり、そもそも自宅に本がないケースが多い、と何かの本で読んだ記憶があります(出典分からず、すみません)。
もし家に本がなかったり、本を買ってくれる親御さんでなければ、お二人は今のようにエッセイストや俳優として、自立できなかったかもしれません。
また、藤木さんの場合は夫からの暴力に耐えられず、家から逃げ出したのですが、その夫の追跡とストーカーぶりがすごくて、いったんは家に戻ろうかとまで考えたそうなんです。
ところが、その夫が急死したんですね。
これによって藤木さんは幼少期から続いたDV生活から解放されるのですが、加害者が亡くなるなんて、これは運としかいいようがないですよね。
オンラインサロン主催者の宮澤さんの場合も、宮澤さんだけでなく父やほかの兄弟も「母はおかしい」ということを理解してくれていた。
家族の中で孤立しておらず、自分のつらさを共有できる家族がいた、ということが恵まれていたと思います。
こういう、紙一重の要素によって、そのひとが自立でき、生き残れるかどうかが決まってしまうのだと思うんですね。
ーなるほど。山水さんは自分の過去を振り返って、何が決め手だったと思っていますか?
私の場合、たまたま、手先を使う昔の女の子的な遊び(折り紙、おはじき、あやとり)や、手芸、工作などに興味があったこと。
これがとても大きかったと思います。
運動神経が本当になくて(笑)、幼児期は室内でそういうことをしていました。
両親が働きに出ていて小さい子どもがいると、祖父母が遊び相手になったりするのが一般的なのかもしれませんが、ウチは祖母はああいうひとなので、子どもの相手で自分のプライベートの時間がとられるのはいやだから、めったに遊んでくれませんでした。
絵本を読んでもらえなかった、というのも、その絵本を読んでいる時間、大人は自分の趣味はできないじゃないですか。
大人の中にはそういう時間を「子どもと過ごせる貴重な時間」という前向きにとらえられるひともいるんでしょうけど、ウチの家族みたいに「自分のやりたいことができない、子どもに合わせる退屈な時間だ」と感じてしまう大人もいるんです。
(父も同じような理由で、まったくかまってくれませんでした。)
そういう祖母が、たまーに相手にしてくれたのが、祖母が自分の幼児期にやっていた遊びである、お手玉(「おじゃみ」と呼んでいました)、おはじき、折り紙、あやとりなどだったんです。
あと、「祖母がやっているのと同じことをすれば、祖母が教えてくれたり、アドバイスをしてくれる」と子どもながらに知恵を絞ったのでしょう。
いつも手芸や編み物をやっていた祖母の横で、私も端切れや毛糸をもらって小さいながらに手芸を始めました。
ーへえ~そうなんですか。幼児でもスマホを見ている現在とは、時代の差を感じます。
ほんとですよね。おはじき、おてだまとか「何時代の遊び?」って感じ(笑)。
こういった手先を動かす細かい作業が実は子どもの脳の発達に重要だということを、ブレイディみかこさんの本を読んで初めて知ったんです。
ブレイディみかこ(2017)『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』みすず書房
本の情報(出版社へのリンク)
ーブレイディさんといえば、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2019年、新潮社)がヒットしましたね。
あの本は、本当にすばらしいですよね。
こちらの本はぜひ、『ぼくはイエローで…』を読んだ方には二冊目としておすすめしたいですが、あらためて別の記事で紹介できればと思っています。
今回、話題と関係している部分だけに注目してお話しようと思います。
ー手芸とかお手玉に関する部分ですね。ブレイディさんはイギリスで保育士をされていたことがあるんですよね。
そう、それも本の中では通称「底辺託児所」と書かれているのですが、イギリスで「平均収入、失業率、疾病率が全国最悪の水準」と言われる地区にある、無料の託児所で保育士をされていたんですね。
ここには親子三世代で生活保護で生きているという家庭や、親が薬物やアルコールの依存症からの回復プログラムを受けている最中、という家庭の子どもも来ていたそうなんです。
ブレイディさんはその後、比較的豊かなエリアの保育園に転職します。
転職後に、両方の園の子どもを比べたとき、もっとも違いを感じたのが、語彙の多さや数が数えられるか、といった学習力よりも、手先の発達ぐあいだったそうなんです。
幼児期の脳の発達は手先の動きに関係しているというが、たとえばわたしはよく子どもたちと折り紙をする。保育園の三歳児は、底辺託児所の三歳児にはとても折れないような形を器用に折ることができたのである。
『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』 「パラレルワールド・ブルース」より引用
また、本書ではモンテッソーリ教育で有名な、マリア・モンテッソーリのエピソードを紹介し、「子どもの発達には手で触れ、指先で遊ぶ物が必要不可欠だ。玩具のない保育施設は、教材のない学校のようなものである」ともおっしゃっています(同書 「緊縮に唾をかけろ」より)。
私はこのくだりを読んで、幼児にとって手先を使う訓練をする、ということが非常に大事なことなのだと分かり、びっくりしたんです。
私は全然そういうことを知らずに、たまたま「手芸や折り紙、あやとりなら祖母が構ってくれるから」という理由から、毎日やっていた。
でも、そればっかりやっていたせいか、折り紙とあやとりは相当複雑なものまでできるようになってしまい、高学年向けの教本(?)を追加で買ってもらいました(笑)。
また、小3くらいのときには、フェルトで作るぬいぐるみなどの手芸レベルは卒業していて、大人向けのイギリスのテディベアを紹介した手芸本をみながら、テディベアを本体だけでなく、ベアの衣装も含めて作れるようになっていました。
ー山水さんのマニアックさの源流が、すでにそこに(笑)。
絵本の読み聞かせに代表されるような、親御さんがプライベートの時間を使って、一緒に経験してくれるような遊びはあまり日常的にはない家庭だったけれども、山水さんご自身が、偶然、手先の運動を日々やっていたから脳の発達が追いついた、というか……
私もそう思っています。
ブレイディさんの底辺託児所に出てくるような家庭とウチのような家庭は、親にゆとりがなく、自分のことで精いっぱい、という点が共通しているように思います。
「子どもの成長のために、自分のプライベートの時間の一部を使って一緒に遊ぶ」というゆとりが親の側にないから、全てが子どもの自主性に任せられてしまう。
何もしない子はほんとに何もしないまま、小学生になってしまうでしょう。
それこそ、絵本を読むこともなく、手先を使った遊びをすることもなく。
本当にたまたまなんです。
祖母が裁縫や手芸が趣味で、偶然、私もそういうことに興味があった。
もし、面前DV的なことによる脳の破壊が私にあったのだとしたら、同年代の子どもよりも複雑な手先の運動を日常的に長時間やっていたことによって、脳が修復されていた。
あやとりや手芸をしていなかったら、将来、学業や社会生活に支障が出て自立することができなかったかもしれない。
そんな風に思うことがあります。
(次回に続きます)