前回の記事で、好奇心に関するネット情報は、いかに好奇心旺盛な子どもに育てるか、という、子どもを対象とした内容のものが目立つ、というお話をしました。
↓前回の記事はこちら
大人が好奇心を取り戻すには? ネットならこのサイトがおすすめです
ですが、私は大人が好奇心を持つ、ということもとても大切だと感じています。
その理由はいくつかありますが、そのうちの一つについて、今回と次回との2回に分けてお話したいと思います。
現代社会は「論理的思考」ばかりが鍛えられている、頭でっかちの時代
NHK Eテレに「100分de名著」という番組があるのはご存じでしょうか?
読むのにちょっと骨が折れるような古今東西の名著の勘所を、分かりやすく解説する番組です。
今年5月、この番組のスピンオフがラジオで放送されました。
タイトルは「101分目からの100分de名著」。
この放送の中で批評家・若松英輔さんが「世の中全体が、頭でっかちになっている」という趣旨のことをおっしゃっていて、はっとさせられました。
実は、私も仕事をつづけながら、同じような感覚を持っていました。
論理的思考や理路整然と説明できる能力が、センスや感動から生まれる直感的な能力に比べ、重要視されすぎている。そう感じてきました。
確かに仕事をするうえで、感覚的になりすぎずに論理的に考えられることは重要です。
ですが、それが行き過ぎており、仕事そのものが堅苦しくなっている。そんな感覚がありました。
しかし、その状況や不自然さをうまく表現できる言葉をみつけられず、悶々としていたところ、若松さんの言葉を聞いたのです。
どうして今の世の中がこのような状態になっているのか。
その理由の一つは、仕事上のいろいろなものがコンピュータで管理されるようになったことだと思っています。
もちろんそのメリットは大変大きいのですが、デメリットももちろんあり、それを軽減する方法がまだ模索中だからではないか、と感じています。
現在、技術職や事務に関わる方々だけでなく、営業や販売など接客中心の仕事であっても、職場のコンピュータシステムのことが理解できていないと仕事を進めることが難しい状況です。
接客中にもシステムのエラーやトラブルが発生するためです。
イメージしやすい例としては、レジのトラブルなどでしょうか。
また、手書きやタイプライターから、コンピュータシステム中心のオフィスへと変わったことで、簡単なプログラムが組めたりやRPAなどの知識がある事務員が重宝されるようになってきました。
昔は美しい字が書けたり、暗算が速いひとが重宝されたのだと思いますが、時代が変わって事務職員に求められることも変わってきました。
コンピュータシステムを構築するプログラムは、「プログラミング言語」というもので書かれています。
プログラムの記述では、人間同士が意思疎通するときの言葉の曖昧さや説明の前後関係のゆれなどが許容されない、ということが実際の人間の話す言語との大きな違いだと私は認識しています。
このような、プログラムを組む際の感覚(プログラミング的思考)が、本来は論理的思考を必要とされない会話(意思疎通や雑談など)にも染み出してしまっているひとがおり、それが社会全体の窮屈さにつながっているように感じています。
プログラミング的思考では、ゴールを決め、その最短距離を選択します。
これを日常会話や雑談にあてはめてしまうと、会話が窮屈になってしまうのは当然です。
雑談というのは寄り道や道草をしていくもので、結論を出す(ゴールを決めてそちらに話をもっていく)という種類のコミュニケーションではないためです。
今、仕事の現場では、コンピュータと相性の良い「論理的に考えたり説明できる能力」ばかりが偏って鍛えられる、という状況が生まれています。
論理的思考が悪いのではなく、この現状に問題があるのだと思います。
また、仕事の勤務時間だけではなく、日常生活もその状況に近づいています。
日常的にデジタルデバイスを使う生活になり、仕事でパソコンに触れている感覚の延長線上に日常がある、という状態になっているからです。
20年ほど前は、超忙しい現場に勤めているひとは別ですが、普通の働き手や高校生や学生がこんなに四六時中デジタルデバイスに接続状態になっていることはありませんでした。
こういった状況から、論理的に考えたり説明できる能力が高い方が便利な急増し、職場だけでなく、生活の場でも評価される社会になってきている、と私は感じています。
論理的思考ばかりを鍛えていると直感が鈍る
論理的思考が現代社会で必要なことは十分理解しています。
でも、そのままのでいいのかという疑問を抱えながら、私は社会人生活をしてきました。
例えば、筋トレをするときに、腹筋ばかりでなく背筋も鍛えてバランスよく、と指導された経験のある方はいらっしゃると思います。
その考え方と同じで、論理的思考ばかりを過度に鍛えると、心身のバランスを崩してしまうのではないか、と感覚的に思うのです。
人間は論理的に考えるときは左脳を使い、感性や空間認知は右脳がつかさどっています。使っている脳の場所が違います。
これはあくまで私の推測ではありますが、長期的に論理的思考ばかりに偏って繰り返していた場合、、自分の心が動くものに素直に興味を持つようなこと、すなわち「好奇心を持つ」という状態ですが、そのような、感性に働きかける脳の動きが鈍くなってしまうのではないか、と感じています。
感性が鈍ると、どうしても「今後役立つか」やコストパフォーマンスを考えて物事を選ぶようになり、自分の直感を信じる、ということがとても難しくなります。
情報収集してコスパやタイパを判断基準に、メリット/デメリットの分析をマトリックスで行う、というやり方でしか、ものごとを決められなくなってしまうのです。
これからは論理的思考よりも直感が大切
論理的に考えられればそれでいいのではないか。世の中で今求められているのが、まさにその能力なのだから。
そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、生活へのAIの普及が本格化してきたこれからの時代、生きていくのに必要になるのは「直感」の方だといわれています。
日本では、2020年から小学校でのプログラミング教育が必修化し、国はプログラミング的思考ができる人材を育てようとしています。
しかし、改めてこのようなことをしなくても、今の社会に生きていればデジタルネイティブ世代は自然と身につけることができるのではないか、と感じます。
日本語を話す親の元で育つ子どもが、日本語が自然に話せるようになるのと同じ感覚、というと分かりやすいかもしれません。
また、高度経済成長期からの長期にわたり、会社員という働き方が多数を占める時代が続きました。
しかし、現在は個人で仕事をしたり、フリーランスで働くひとも増えてきています。
組織で働く場合、上司を説得したり他部署に自分の提案を通すためには、論理的な思考が必要となる場面が多かったと思います。
ビジネス書にも「ロジカル」というタイトルやワードをよく見かけました。
しかし、組織に頼らず個人で仕事をする場合、日々、自ら決定することの連続です。
コロナをきっかけにリモートでできる仕事も多くなり、自分が得意な業務を部分的に請け負って仕事をしていく、という働き方も広がってきました。
このように「組織に頼らず自分で仕事をする」という選択肢が増えつつある世の中では、直感が磨かれていて素早い決断ができるかどうか、の方が、ワンステップずつ手順を追って考える論理的思考よりも、有利になる場合も出てくるのではないか、と思うのです。
次回につづきます。